古今東西、一宿一飯。

古今東西の食べ物、料理を、その土地で味わいたい! 自分で作って食べてみたい!

横浜みなと博物館の企画展「江戸へ魚を送れ!」と小泉武夫氏の記念講演

こんにちは、shulinkです。

 

先月の10/28(土)に、

横浜みなと博物館の、

企画展「江戸へ魚を送れ!―漁場としての横浜周辺の海―」

を見て、

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小泉武夫氏の記念講演会「環東京湾の魚食文化」を

聴いてきました。小泉氏は、発酵学が専門で、多く

の食についてのエッセイを書いている学者です。

 

企画展の方は、江戸時代の魚料理はどんなもの

だったのか?また、その魚がどこから供給されて

いたのかを紹介しています。横浜も昔は豊かな

漁場だったそうで、高度経済成長期に衰退した

けど、近年また復活した様子も分かります。

ちなみに、常設展の方では、横浜の由来が

分かる展示があって、江戸時代までは、漁村

だった横浜が開国して港が整備されていく過程で、

埋め立てられた様子が分かります。

 

講演会の方では、いろんな魚料理が出てきます

が、どれもこれも美味しそうに話しているのが

印象的でした。

内容を目次にしてみると、こんな感じ、

 

(1)江戸前はどこからどこまでか?

   江戸前の定義を決めるために、小泉氏を含め、

   水産庁の分科会で議論し、2005年に、

   東京湾全域に決定しました。

   東京湾全域とは、1973年に決まった範囲で、

   内湾と外湾を含み、三浦半島と房総半島それぞれ

   の先端を一直線で結んだ範囲を指します。

 

(2)徳川家康は、なぜ江戸を本拠地に決めたのか?

   ・周辺に大河が5本くらいある世界有数の都市

   ・水運が発達し、内陸の農産物を運べる

   ・田畑で使った汚わいが川を流れ、虫もいっぱい

    ついて、下流プランクトンが豊富になる

   ・洲(デルタ地帯)では、甲殻類が豊富で、

    海苔の養殖も盛ん

 

(3)寿司には2種類ある

   ・「すし」の”す”は「酸っぱい」の”す”

    だから腐敗菌が来ない

   ・発酵した寿司:

    ふな寿司、さんま寿司、さば寿司など、

    なれ寿司と呼ばれるもので、ごはんと

    魚を桶に入れて、1ヶ月〜半年かけて

    発酵させた。縄文時代からある調理法で、

    現在、沖縄を除く46都道府県にある。

   ・早寿司:

    長く待っていられないから、ごはんに

    お酢を加えて、酸っぱくして食べる。

    大阪では押し寿司(箱に入れて上から押す)、

    江戸では握り寿司になった。

 

(4)江戸(関東)の食文化

   ・白身魚を好み、赤身はあまり食べなかった

    うまみより甘みを重視。鰹は別格。

   ・江戸のくさやは、むろあじを海水につけては

    干しを繰り返し、つけ汁の方が発酵して臭い

    から美味しい。

   ・江戸名物の佃煮は尾張から職人を連れてきて

    作らせた。美味しさの決め手は味醂

    小泉氏は甘酒で作った鯨の佃煮が一番とのこと。

   ・天ぷらは、白身魚を衣につけて揚げる

    さらに天丼が流行した。

    関西では、魚のすり身を油で揚げる。

   ・江戸のうなぎは白焼き

    蒸して脂を落としてから焼く。

    上方(関西)は、蒸さずに長焼き。

    昔ながらのうなぎ屋が浅草にあったけど、

    今は両国にあるお店が、2時間くらい

    かけてじっくり焼くそうです。

   ・マグロの食べ方

    赤身なら、しょうゆ漬け(20分くらい

    が一番美味しい)。トロは食わなかった。

   ・小肌は酢に合うので好まれた。

   ・江戸っ子は、しょうゆをつけると汚れる

    という理由で好まなかった。

   ・煎り酒:しょうゆの代わりに

    日本酒1升、梅干し、かつお節を火に

    かけて、5合分濃縮して、こしたもの

    刺身につけて食べた。

   ・白魚(しらうお):

    大川に上ってくるのを獲ったり、

    佃島によく集まってくる。

    昔は踊り喰いはなかった。

    天ぷらやかき揚げにして食べた。

   ・江戸時代の方が新鮮な魚を食べていた?

    日本橋の魚河岸では生け簀をもっていたから。

   ・忠臣蔵の裏設定:

    尾張の吉良と播磨の赤穂は、どちらも塩の

    特産地で、ブランドの奪い合いがあった。

 

(5)小説「幻の料亭・日本橋『百川』」

   小泉氏が著した、江戸屈指の料理屋「百川」

   の謎を追うものです。その謎とは、大繁盛

   していた料亭がなぜ突然、姿を消したのか?

   1つの理由は、幕府からの重税。

   もう1つの理由は、ペリー来航の際、饗応

   料理を一手に引き受けて、その代金を幕府

   からもらえなかったのではないか?

   その宴では、500人分(アメリカ人が

   300人、侍が200人)の料理を出して、

   72皿を92の材料を使って作ったそうです。

   その時の「百川」の主人の息子が安藤広重

   だったという。

 

小泉氏のお話は、学者の堅苦しさが全然なくて、

自身が本当に大好きなことを語っているので、

1時間半の講演もあっという間でした。

始終、うまそう〜と思いながら、聴いてました。

 

和食というものが確立した江戸時代の味を

探していくのも、これから楽しみです。

 

では、また〜