こんにちは、shulinkです。
先日、1月に公開された、
映画「沈黙-サイレンス-」を観てきました。
遠藤周作の小説「沈黙」を原作にしたもので、
史実に基づいた時代劇です。
舞台は、江戸時代初期の日本。
島原の乱(1637年)に前後して、
宣教師(司祭、神父)と切支丹(キリシタン)を
本格的に弾圧し始めた頃です。
■あらすじ
自分たちの師であり、日本で布教していたフェレイラ
知らせを受けた。2人は真相を確かめるべく、マカオ
にいた日本人キチジローの案内で、長崎に密入国した。
隠れキリシタンの村に歓迎され、一時、布教活動をする
が、キチジローの裏切りにより、遂にはキリシタン狩り
を長年担当していた長崎奉行に捕らえられてしまう。
ガルペは処刑されようとしていた信者と共に殉教し、
ロドリゴは、目の前で拷問される信者を助けるため、
ようになった。それは、師フェレイラが歩んだ道と
同じであった。
■歴史のお勉強
学校で習った歴史では、踏み絵が日本全国で実施
されたという印象でしたが、ほとんどの地域では、
そんなことをする必要がなかったのでしょう。
映画の中では、キリシタンを、教え諭すように
仏教に改宗させようとする役人が描かれていました。
キリスト教が日本には合わないのだという言い方で
キリスト教を退けようとする理知的な方針でした。
始まっており、先進国の植民地獲得競争もあり、
当時のキリスト教の宣教師も、その動きを背景に
して海外へ進出していきました。そういう時代では、
当時の江戸幕府が強硬手段で外国の宗教を排除し、
鎖国したのは賢明だったというのが最近の認識の
ようです。
■信仰とは何か?
現代の日本人の感覚では、
なぜ踏み絵ができないのか?
そんなに畏れ多いことなのか?
という気がすると思います。
多くの日本人は、どこかの宗派に属した仏教徒という
ことになってますが、正月・お盆もあれば、クリスマス、
バレンタインデー、さらにはハロウィンも祝うということ
をやってます。宗教に寛容というか、無頓着という気も
しますが、それで信仰心がないかというと、そうでもなくて、
葬式や墓参りなどは生活習慣に深く根付いています。
映画の最後の方で、宣教師ロドリゴが自分の心の声(神の声?)
を聞き、キリスト教を棄てるというシーンがありますが、
映画はタイトル通り、ほとんど音楽なしの「Silence」な
演出だからこそ、できるのかなと思います。
過剰な荘厳な雰囲気は宗教に似つかわしくないのでは?
また、信じ続けるというのは、何も考えていないという
気がします。疑うことから始めたデカルトは、近代の
哲学や科学を創っていきました。
ボクたちも、うっかり信じ込んでいることありますよね?
それから、例えば、1万円札を破ることができますか?
できなければ、こんな紙切れに、それ以上の価値がある
と信じ込んでいる証拠です。
ま~ボクもできないですけどね・・・
そういうところから、信仰というものができるのかな?
と思います。
では、また~